読後感

わたし、定時で帰ります。:朱野帰子/(1906)

タイトル:わたし、定時で帰ります。
初版:2019年2月15日
発行:(株)新潮社
著者:朱野帰子[あけのかえるこ]

 honto(サイト)の新刊リストから発見。タイトルから「定時で帰ることをどうやって物語(小説)にするんだろう?」と言う単純な興味から購入。
 話の持って行き方(各章の落とし所)に若干の無理(強引さ)があるけれど、総じてストーリーは、読みやすく面白かった。
 賛否の感想とか、色々と思うところはある。ただ、勤め人であるサラリーマンである立場なので書けない・書かない。

<メモ1>
種田晃太郎:「会社は仕事ができるようになりたいと思う奴ばかりじゃない」
東山結衣:(自分が上に行かなければ、きっとこの会社は変わらない。)

<メモ2:それはちょっと違う>
「真に恐ろしいのは敵にあらず、無能な上司なり」
 本文において、甘えた考えを持つ人たちからは最も共感を得られる一文(フレーズ)ではないだろうか?
 職業選択の自由が認められている現代において、自分自身の無能を棚に上げて上司を無能と評価することは、もっとも簡単に導き出せる愚者の結論。(自分は無能じゃない・悪いのは上司だと)自らを慰める行為でしかなく、逃げである。(と私は思う)。
 無能な上司であるなら扱いやすい、あるいはすぐに追い抜ける。と喜ぶところである。またそれができないのであれば、同類かそれ以下ってこと。
 



 一般受けを狙うには外せない「腫れた惚れたの男女の話」の部分について。
 おそらく大抵の人が、前半早々でオチについては予測がつく。その予想を大きく裏切るバッドエンドでもハッピーエンドでもない。言葉を変えると「オチが雑い」。
 本題からすればこの部分(惚れた腫れた)はオマケみたいなものだし、それはそれでいいのかな?



 しかし、なぜゆえに巻末にあの解説をつけたのだろうか?
 本文の内容を復唱しているだけの解説で、特別に何かの感銘を受けるわけでもなく、目から鱗的な再発見を得られるわけでもない。今まさに読み終えたばかりの小説の内容の解説。余韻を壊すだけだった。
 あの巻末の解説を読んで誰が得をするというのだろうか?
 甚だ疑問しか湧いてこない。

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