読後感

猫は神さまの贈り物<小説編>:森茉莉、宮沢賢治、星新一ほか(アンソロジー)

タイトル:猫は神さまの贈り物<小説編>
初版:2020年10月15日 
発行:株式会社実業之日本社
著者:森茉莉、吉行理恵、室生犀星、佐藤春夫、小松左京、梅崎春生、宮沢賢治、金井美恵子、星新一

《猫》をテーマにしたアンソロジーで、原著は1982年に発行された『猫は神さまの贈り物』。
2014年に小説編、エッセイ編に分冊し、作品が追加されて改訂復刊の、さらにその改訂復刊版となる。

 著者や内容も気にせず、アンソロジーであることすら確認せずに、タイトルのみで、<エッセイ編>と合わせて、ジャケ買いならぬ「猫買い」をした。

黒猫ジュリエットの話:森茉莉[もりまり]

 飼い猫の黒猫ジュリエットが、主人公(牟礼魔利)の行動、言動、為人などを語るエッセイ。作中で主人公(牟礼魔利)は森鴎外の娘として語られているので、著者(森茉莉)のことだとわかる。そう言う意味では私小説的なところもある。

 現代人が読むには言い回しとか言葉遣いが古くて読み難い部分も少しある。けれど、作者独特の言い回しに引き込まれ、それにもまして小気味よいリズムで読み進められる。

寂寥の翼の音は魔利の部屋の空間で羽撃[はばた]き、それはついに魔利の周囲を埋め、魔利は文房具屋のベエトオヴェンのような深刻な顔になって書き、続けたのである。

 前後がないと伝わりにくいとこもあるけれど、個人的にはこう言うのも好き。静寂感でもなく、煩くざわついた感じのどちらでもない様でどちらでもある。

 文具屋のベエトオヴェンは想像できない。物書きなので文具屋なのか。確かにベエトオヴェン(ベートーベン)は、よく見る肖像画などから眉間に皺を寄せ、難しそうに何かを強烈に思案している様なのイメージがある。そして、「描き」のあとの読点が単に書き続けたのではなく、書いて、そして続けたと言う感じが伝わってきた(作者の本当の意図は知らんけど)。

 細部と全般に渡り、自由奔放で、明らかに俗世離れした生き様と感覚から生み出される表現と批評、講評の表現の独特さは趣きがあった。

 大体牟礼魔利や野原野枝実は馬鹿かも知れないが愉快な人間なのである。日本では愉快な人間というものを解さない。人間は制服を着たように同じでなくてはいけなくて、又実に皆よく似ている。

 昭和、平成が過ぎ去り、今の令和の世のでも同じ。軽く半世紀以上の歳月がすぎ、当時とは産業、科学技術は比べ物にならないほど進んでいるがこう言う根本的なところは変わってないのと思われる。

 男子でも女子でも文科の学生という人種は、人の父親の文学を人よりは
かに知悉していて、折さえあればよび出して質問の矢を発しようと虎視眈々としてういる団体である。

 この時代でも(この時代だから?)有名人の子供あるある・・・なんだなぁ。っと。

 下手したら、本人より本人を知るマニアとかもいてますし。本人も忘れている様なことを知っていたり、本人以外からの情報を仕入れたりして。

雲とトンガ:吉行理恵[よしゆきりえ]

『小さな貴婦人』(第85回・1981年度上半期 芥川賞受賞)の5編の小説のうちの一編。

 黒猫ジュリエットの話と同様の私小説。

 全5編を読まないと、芥川賞の受賞の良さはわからないのか、この一編のみでは伝わってこない。

 死んでしまった兄猫と、そして残った著者と妹猫との生活。かすかに残る兄猫の生きた面影を回想するような描写が続く。

 表現とかがちょっと冷たい感じで猫の話としてはちょっと苦手かな?

「色がちがう、 匂い いがちがう、手触りがち」と流行歌の替え歌を調子ぱずれに歌いながら部屋に戻り、

 山口百恵のイミテーションゴールドの歌詞の一節「今年の人よ声が違う 年が違う 夢が違うほくろが違う」ですね。引退から40余年。

猫の歌:室生犀星[むろうさいせい]

猫は時計のかはりになりますか。
それだのに
どこの家にも猫がゐて
ぶらぶらあしをよごしてあそんでゐる。
猫の性質は
人間の性質をみることがうまくて
やさしい人についてまはる、
きびしい人にはつかない、
いつもねむつてゐながら
はんぶん眼をひらいて人を見てゐる。
どこの家にも一ぴきゐるが、
猫は時計のかはりになりますか。

短い詩で、没後50年を過ぎていますので、そのまま転記

 楽しいリズムで、猫の習性(?)が面白く詠われている。

 最初と最後の「猫は時計の代わりになりますか」が何とも言えない不思議感。時代背景とか著者に詳しければ、この意味がわかるのだろうか。私には「猫に時間を聞いても応えてくれないし、猫の態度や外観から時間が読み取れるわけもないので、時計の代わりにならない。」と言う、字面しか読み取れなかった。

愛猫:室生犀星[むろうさいせい]

抱かれてねむり落ちしは
なやめる猫のひるすぎ。
ややありて金のひとみをひらき
ものうげに散りゆくものを映したり。
葉のおもてにはひかりなく
おうしいつくし、法師蝉、
気みぢかに啼き立つる賑はしさも
はたとばかりに止みたり。
抱ける猫をそと置けば
なやみに堪えずふところにかへりて
いとも静かに又眠りゆく。

 縁側で、夏の終わりを感じるひとときって感じかな?

猫と婆さん:佐藤春夫[さとうはるお]

 主人公は「主人」となっているが、おそらく作者?

 生まれてまもない子猫との生活で、自分より猫に入れ込んだ優しい主人の話。最初の二作と違い、ほのぼのとした感じ。こんなことを書くとフェミニズム至上主義者に怒られるかも知れないけれど、やっぱり男の方がロマンチストだよね。

 一つわからないのが、物語の途中から主人公が「主人」から「爺さん」に変わっているので混乱した。登場する猫は1匹だが、前半に「デカチビ(猫の名前)を愛する主人は」との表現があったかと思うと、後半では「爺さんの親友たる愛猫は」と言う表現になっていたり。

猫の首:小松左京[こまつさきょう]

<ネタバレ注意>

 とある家族の愛猫が無惨な姿で殺されるところから物語が始まる。

 どうやら、何者かに殺されたようで、どう展開していくのか読み進めていると、普通ではなく、何やら雲行きが怪しくなる。

 どうも猫を飼ってはいけない世界のSF要素があり、国家権力か何かの疫病か、あるいは狂信的な宗教など、何かが蔓延るディストピアなのか?

 主人公の家から不審な侵入者が逃げ去る描写のところで、その何かは大体の予測がつく。

 が、どういうこと何か?

 と、短い小説なのに、ぎゅっと謎が詰まった作品。危うく電車で降りる駅を乗り過ごすところだった。

大王猫の病気:梅崎春生[うめざきはるお]

 1954年に発表された作品。

 最初はヨボヨボの大王猫と3匹の猫たち(オベッカ猫、笑い猫、ぼやき猫)のドタバタ劇(コミカルな話)かと読み進めたら、全くもって正反対と言って良い感じだった。

 大王猫の病気のための妙薬を手に入れるために、危険な任務を押し付けられる3匹の部下猫たち。

 任務に際して、部下猫たちが失敗しても、代わりを当てれば事足りると言う発言やその他の大王の傍若な振る舞に描かれる姿は、時代背景から鑑みるに、戦時下の軍部へ対する批判的な意味合いもあったのかもしれない。

葛根湯医者

 病気になった大王猫のどんな不調にも「マタタビ」を処方する‘ヤブ猫’が登場する。

 落語の「葛根湯医者」と言う噺がもとになっていることはほぼ間違いない。ただ、現代において「葛根湯医者」の話を知っているのは落語家および落語好き、あるいは漢方業界人くらいではないだろうか。

「マタタビなんか古い。全然古い。十九世紀的遺物だ。現今はもはや二十世紀だぞ!」ヤブ猫はかくのごとく真正面から痛烈に面罵されて、とたんにすっかり慄え上がり、(後略)

 1954年と言うと、大塚敬節、奥田謙蔵、細野史郎、矢数道明らが東洋医学会を発足してまだ数年のころ。マタタビを漢方薬として置き換えて読んでみると、マタタビ(漢方)ばかり出すヤブ猫が漢方医として、その対比として文化猫が西洋医として描かれているのだと推測ができる。

 本作とは関係ないけれど、ヤブ医者も元来は名医の代名詞だった。けれど、その代名詞を語る質の悪い医者が増えて、ヤブ医者を名乗る医者の質が劣化したため、逆の意味に変転してしまった経緯がある。

Xerxes did die, so must we.

「諺にもXerxes did die, so must we. というのがあるな」

上記のヤブ猫の発言があったが、全く意味がわからなかったので、web上で調べてみた。どうも「Xerxes the Great did die, and so must you and I」が原文のよう。

 ただ、意味がわからないので、Google翻訳を利用すると「クセルクセス大王は死んだので、あなたと私も死ななければなりません」との意味のようだ。

 そして、さらにはクセルクセス大王についても知らないとその真意がわからないだが、そこまで調べる気にもなれず。

現代風に書き換えると韓国かな?

「そいじゃ黒牛さんが、脳下垂体は分けてやる代りに――」とばやき猫はここで大きく息を吸いこみました。「その代りに猫森の一部分を割譲せよとか、猫的資源を出せよとか、そんなことを言い出したら如何はからいましょうか」
(中略)
「そんな悪らつなことを、まさかねえ、アメリカじゃあるまいし」

 現代に書かれたとしてら、アメリカではなく韓国かな?

 さらには、資源だけ巻き上げたら、難癖をつけて代償(脳下垂体)は払わない。それが韓国でしょうね。こんな国に戦後何十年も騙され続けた日本人もお人好しすぎるけれど。

結末(ネタバレ注意)

 牛の脳下垂体を手に入れるために、黒牛のいてる‘牛ヶ丘’に向かった3匹がまず辿り着いたのは‘たんぽぽ丘’。

 そのたんぽぽ丘から見下せる先に牛ヶ丘の平原があり、そこには途方もなく大きな黒牛がうずくまっているのが確認できる。

 猫の大きさ(と強さ)から鑑みて、とても黒牛から脳下垂体を奪い、3匹とも生きて帰ることは到底無理。1匹でも辛うじて生き残り大王猫へ届けられれば御の字だが、その確率すら限りなく低い。

 さりとて大王猫の命に背いておめおめと帰ることもできず、たんぽぽ丘で最後(最期)食事をするも味がしない。

 食事後の続きが描かれることはなく、最後の一文として「僕はこう言う彼等につよく同情するのです。」で締め括られている。

 黒牛をアメリカと読み替え、3匹の猫を特攻隊に置き換えると、あとの結末は想像に難くない。

どんぐりと山猫:宮沢賢治[みやざわけんじ]

かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                 山ねこ 拝

 冒頭、このような手紙を山猫からもらい、どのどんぐりが一番偉いかを決める裁判のアドバイザーとして呼ばれた一郎。

 黄金色に輝く体を持ち、あかいズボンを履いたどんぐりたちが、自分が一番頭が尖っているだの、丸いだの、背が高いだの、大きいだのをそれぞれに主張し、判決にこまった山ねこが一郎にアドバイスを求める。

 <ネタバレ>結論として、一郎のアドバイスは「いちばん偉くなくて、馬鹿で、めちゃくちゃで、てんでになっていて、頭の潰れたような奴」が一番えらい。として、どんぐりたちは、誰も名乗りをあげなくなり裁判は解決する。

 カテゴリーを細分化すれば、どんな分野でも一番を目指せるし、何か一つのことがらにのみ焦点をあてて、一番偉いとすることへの批判的な視点が含まれているのかも知れない。あるいは、単純に、どんぐりたちを可愛らしく表現するためにくだらない(?)ことで争っているだけなのかも知れない。

最大の謎

 十数ページの短い小説なので、詳細は語られず「謎」が多い(謎だらけ)。

 最大の謎は、山猫が、一朗に対し名誉判事となって、今後も引き続き裁判の手伝いをして欲しいとの申し出をする。

 その招聘依頼の葉書について、葉書を出す際に「明日出頭すべき」と書いてはどうかと言う提案を一朗にする。(最初は「おいでんなさい。」であった)

 一郎は、裁判の手伝いをすることはやぶさかではないとしつつも、その表現を断った。

 そして、今回のお礼を受け取り帰宅した一郎だが、その後は手紙がくることはなかった。

やっぱり出頭すべきと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はときどき思うのです。

 手紙が来なくなったことに対して、一郎は上記のように回想している。

 葉書が来なくなった理由は、作者しかその答えはわからないけれど、なんかモヤモヤっとする。

 もっとも、そもそもが異世界な物語なので、それらを想像するのが楽しいのだが。

暗殺者:金井美恵子[かないみえこ]

 表現、描写が生々しくて、どこか気持ち悪い感じ。

 生々しくて気持ち悪く表現できるその表現力が文筆家というもので、それがお本作の狙いだと思うけれど、好みかどうかと聞かれたら、好みではないかな・・・。

ネコ:星新一

アマチュアマジシャンブログのネタとして

前から見たところでは、トランプのクラブのような形の生物だった。よこから見るとスペードの形ににていて、上から見るとハート型に近かった。一本足でとびはねているが、足あとはダイヤの形かもしれない。
(中略)
それを聞き、カード星人は話しかけた。

 三度の飯よりカレーが好きなアマチュアマジシャンとしては、ここは抜粋(引用)しておきたいところ。

 1964年の作品で、1964年と言えば、手品マニア垂涎もののシルバー・ハーフダラーの年ですね。

コピペ

犬は人間を神様と思っている。なぜなら、人間が食べ物を与えてくれるから。猫は自分を神様と思っている。なぜなら、人間が食べ物を与えてくれるから。

 と言うのがあったが、まさにこれ。ひょっとして、このコピペも、この作品から派生したものなのかも知れない。

 人間はお猫様のために家を建て、お猫様に食事を献上するために一所懸命に働き、家の掃除もして、時折放浪に出るお猫様が留守の間も家を守り続ける。まさに人間はお猫様の奴隷です。


猫は神さまの贈り物〈小説編〉

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